津波の写真    
 津波の第一波は当時6メートルの津波に耐えるといわれていた堤防をいとも簡単に超えてきました、その後ろに大きな波が壁になって迫っています。写真の白い建物は水門(地図のCです)です。
水門の先にはもう一つ突堤があったので波はまだ水門には到していません。
 


すぐに大波は水門(地図参照)を乗り越え河口の沼に入ってきました。 
 


 
 波が別荘地を襲っています。我が家(地図参照A)はこの写真の左端にありました、平屋建だったので水面下です
ポイント・この写真からも地震による建物の倒壊はなかったことがわかります。
 



 私が避難をしてたのは3階建てのポンプ場(B)でした、足下を濁流が奥の方へ、奥の方へと流れてゆきました、波がポンプ場の建物に当たり、‘ぐらり’とした瞬間にはもう駄目かと思いました。
大きな音を立ててはいません、不気味なくらい静かで何故かサラサラといった感じでした。

そして、この波の先端は県道を超え、JR常磐線の線路を超え、約2KMほどの奥まで達していました。
 


 何回か波が押し寄せてきましたが、引き波と相殺されてか白い波となり破壊力は落ちていました、とにかく始めの波の破壊力は大きく、2メートほどの高さの鉄筋コンクリートの第2堤防が壊され約30メートル、我が家の鉄筋コンクリートの基礎はそのままの形で30メートルほど移動していました。白く波たった波はあまり怖くはない、黒い塊の波は怖い。
 



 津波が去って
津波は瞬く間に、何事もなかったように去ってゆきました,そして後には何も残りませんでした。

水門Bの下の方は波で破壊され鉄筋が丸出しです。
震災後、この地区一帯が海に続いた砂浜となり危険地区、立ち入り禁止地区となりました

 


 我が家)の跡には何も残りませんでした、周囲の松林の松は全部根こそぎ流てされていました。
この電柱は我が家の敷地内にありました。
 


 私の命を救っってくれたポンプ場です。
波は大きな入り口の上部迄達していました。

ここには工事現場の人、見回りに来て帰れなくなった警官一人、など13人がこの3階に避難しました。
ガランとした部屋で冷たい床に翌朝までうずくまって寒い一夜を過ごしたのです、しかし命は助かりました・
・助かったのです!!
 
 

   続・東日本大震災の写真  
             宮城県亘理郡山元町の写真です  2013年3月12日投稿作成投稿
 あの震災から2年が経過しました。
震災時に撮った写真はM新聞に掲載されたりしましたが、まだカメラに残っているものが何枚かありました
今・再生をしてみると、私の手が震えて、動画・静止画の切り替えが全く出来ていないことに気がつきます。
少し落ち着いたようやく、当時の写真をまともに見る気になりました。


(動画は載せていません)
 

     地震の被害(津波前)は

大きな地震でした、しかし、近所の家も少し傾いた程度で私の家も含めて倒壊はしていません。

私の住んでいた地区には‘津波は来ない!!と言われていましたがこの地震では津波が来ることが予測されたので、避難をしようとしましたが写真のように道路は陥没して県道まで出ることはできませんでした。
何時津波が来るかもしれない、高台までは2KMほどもあるし、このような状況だったので近くにある鉄筋コンクリート造りの排水ポンプ小屋に逃げ込みました。

《実際に津波が来たのは1時間程後ですから高台までは歩いても充分逃げることはできたのです。しかし、この時は、何時来るのか?何時来るのか?
全く予想がつかなかったのです。、
     
     足元を流れる津波に生きた心地はありません

津波の第一波が避難していたポンプ小屋に当たってドスンと揺れたときは‘これが倒れたら駄目だ’と思いました、なにか、‘浮き’になるものがないか・・・と頭をよぎりましたが完成したばかりの小屋の中はガランドウです。
第2波は弱い波だったのでこの時、助かった!!と思いました、これは本当に短い時間の出来事です。

このような波に突然見舞われたときは多分
自分の身の回りに何が起きているのか?まったく、判らないのではないでしょうか、このような波に飲み込まれたときはショックを受けた状況になるのではないかと思っています。
     
    激流はは内部奥地にも流れ込んでゆきます。

ポンプ小屋を通り過ぎた津波は陸地の方へと流れ込んでいます。
この写真は津波が来と海の方向とは反対の西方向を撮ったものです。(反対背中側が海になります)KMほど先に高台に当たる山が見えます。

JR常磐線はこの中間あたりを走っていました。
右は仙台方面左は・相馬・磐城方向です。
     
     
     
     山元町の平野に波が流れ込んでいます

ここは美しい稲田や、イチゴ栽培のハウスが並んでいました

そして、この波でたくさんの方々が流されたのです。
しかも一瞬んの出来事です。

6mの波にも耐えると言われていた防波堤、そして
たとえ三陸の方に津波が来てもこの地区には津波は来ない、と言われてきた・・・これが仇になったように思います。
     
    津波の翌日

寒いながらも昨日の出来事が嘘のような青空です。水が引いて顔を見せている堤防の上を陸地へと向かいました。
途中の家は倒壊はしていませんが、波が通り過ぎた一階部分はガランドウでは柱と僅かに壁が残るだけです、中は瓦礫で詰まっています。


2011年3月12日朝10時ころ撮影
     
     車もこの通りです

瓦礫を避けたり乗り越えたりして堤防を山手方面(国道6号線側)に向かって行く途中でした、
かすかに’オーイ・オーイと呼ぶ声がしたような気がしました(私の他にも3人の方も聞こえたといいます)。

私たちは‘誰かいるかー!!と数回叫びましたが返答は無く,しばらくその場で何か反応があるかと待ちましたが風の音ばかりで静まり返っていました・・・本当に静かでした。

2011年3月12日朝10時ころ撮影


     
    車は!

 いたるところこのような光景です。

2011年3月12日朝10時ころ撮影
     
     JR/常磐線は?

JR・常磐線の線路はひっくり返ったり・瓦礫の下になったり、切れていたり、また、一部は跡形もない有様でした。

瓦礫には釘が出ていたりして大怪我をする危険性があり、余震でいつ崩壊する危険性もあるので慎重に、慎重に一歩ずつ国道を目指しました。

 カメラをクリックして始めのページに戻ります。
   地球をクリックして玩具箱のページにもどります。

inserted by FC2 system